カラマーゾフの兄弟 by ドストエフスキー (1879)

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

読むきっかけは「語彙力こそが教養である」を読んで、その中のお勧めに本書があったから。語彙力を鍛えるのにピッタリな本らしい。かといって、この本が読みにくくはない。もっとも私が読んだ原拓也氏の翻訳による新潮文庫カラマーゾフの兄弟は読みやすいと評判らしい。

 

もう一つの理由は、ゴールデンウィークを無為怠惰に過ごすことなく、意味があるかはわかないけど、読書に没頭して読書体力をつけたかったから。カラマーゾフの兄弟新潮文庫で上・中・下巻の3巻におよび、2000ページにもなる。こんな長編小説は初めて読破した。

 

ゴールデンウィーク中に読破する予定は頓挫し、結局1ヶ月くらいかかった。私は1時間60ページくらいしか読めないスローリーダーなので、33時間くらいかけて読んだことになる。

この本はきっと何度も読んで噛みしめるものなのだろうなと思う。僕は、映画なら好きなものは何回も観まくるが、文学ではそんなことは起こったことがない。このカラマーゾフがそうなって欲しい。楽しみなのはカラマーゾフの兄弟を読んだこと、ドストエフスキーの本を読んだことによって、世界の一部の人と共通の話題が出来たこと。いつか、この本について語る相手があらわれたらきっと兄弟のように感じると思う。文学を読むというのはわかりやすい成長の証ですね。

感想として、1879年に書かれた本だけど、今にも通じる普遍的なテーマを扱っていて面白い。3人の兄弟とその父が登場人物であるが、それぞれの個性が強くて面白い。

 

父親の殺人事件を巡り、この強烈な個性を持ったキャラクターが、生き生きと、自分をさらけ出し、他者にぶつかっていく姿は、まさに人間ドラマの真骨頂というところ。裸で自分の思想をぶつけるという風景は、炎上とかコンプライアンスとか自主規制とか、多様性尊重とか、ポリティカルコレクトネスとか、時には極めて肌触りの悪い既製服を着せられている我々現代人にとって極めて痛快に感じるものだ。自分の本性を他人に完全に晒し、そこには打算とか計算があるわけではなく、ただ単に晒し出しあう姿が清々しい。ロシア人を少し尊敬する気持ちになった。もっともロシア人youtuberがロシア文学は古くて、分かりにくくて、現地の人もそんなに読んでいるわけではないと聞いて、逆に少し安心したけど。

 

印象に残ったシーンは、第5篇に出てくる大審問官。無神論者のイワンがアレクセイに語る叙事詩だが、ここでは復活して現代い戻ったキリストが一方的に、痛々しい程に、老審問官の批判を浴びる。キリストの死後、社会を支えてきたのは悪魔の論理であり、復活したキリストの存在が逆に邪魔であり、明日には処刑すると問い詰められるところだ。それに対し、キリストは無言のままキスをする。

 

第6篇では、大審問官の対軸となるようなシーンとしてゾシマ長老がアレクセイに人生最後の説教をする。長老は「余分な不必要な欲求を切り捨て、自惚れた傲慢な自己の意志を免罪の労役によって鞭打ち鎮め、その結果、神の助けを借りて精神の自由を、さらにそれとともに精神的法悦を勝ち得るのだ!孤独な富者と、物資や習慣の横暴から解放された者と、果たしてどちらが偉大な思想を称揚し、それに奉仕する力を持っているだろうか?」と語る。アレクセイはこの後、第7篇で大地を抱きしめ、涙を降り注ぎながら大地に接吻し、立ち上がり一生変わらぬ堅固な闘士になる。

 

欲望をエンジンとする社会の中で、錯綜する人々。その中で、宗教から自分の精神の拠り所をもち、大地に足をついて未来を切り拓こうとするアレクセイの姿の描写が実に美しかった。 ちなみに、クレバーで合理主義なイワンが、最後は兄の裁判にあっては、精神的にボロボロになってしまうところも、印象的だった。科学は人々に心の安住を齎す者ではないということだろうか。

 

また死にイリューシャという少年と、その友人達、父のスネギリョフ、アレクセイのシーンはジーンときた。日々に脈々と残る人間の暖かな愛情に希望を持たせるとても大事な伏せんだった。

 

カラマーゾフの兄弟は、著者自身が、二部構成であることを語っており、書かれぬまま、ドストエフスキーは亡くなった。誰も読むことが出来ない続編がある、それがまた、この文学により一層の深みを与える。いつかロシアのバーでウォッカを飲みながらカラマーゾフの続編についてロシアの人と語ってみたい。妄想するだけで楽しい。