これだけは知っておきたい 図解 はじめての仏教 (2020) 長田幸康

 

これだけは知っておきたい 図解 はじめての仏教

これだけは知っておきたい 図解 はじめての仏教

  • 作者:長田 幸康
  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: 単行本
 

 とっても読みやすい。1時間くらいで読破できる。

 

最近、NHKオンデマンド永平寺のドキュメンタリーを観たり、オリラジ中田のyoutube大学から、仏教に興味を持ってて、まずは手始めに分かりやすい入門書から始めようとと思って、これを開いた。

もっと言うと、マインドフルネスブームから、瞑想は昨年から時々サボりつつ続けており、仏教の教えに興味を持っていた。

そもそも、インドで生まれた仏教が、中国に渡り、朝鮮半島を経て、538年に日本に伝わり有象未曾有の宗派が生まれる。現代にあっては、殆どの人は仏教はお葬式、御墓参りのみで接点を持ち、それ以外は意識することもなく、神社とお墓の違いも意識することなく、家族の宗派もわからないと思う。私も一人だ。もっと言うと、アメリカでもてはやされるマインドフルネスの瞑想から、禅を知り、曹洞宗の只管打坐に興味を持ったのが今である。

でも仏教の歴史やあり方を学ぶと、本当に懐が深くて、とてもインクルーシブな宗教であることがわかる。だから、こんなルートでも、仏教には自分を受け入れてくれる包容力を感じる。

お釈迦様の教えの基本である三印は「諸行無常 (全てもののはうつ変わる)」、「諸法無我(全ては実態はなく、互いに依存している)」、「涅槃寂静(苦がない境地)」であり、どんな人や、社会や、組織にも溶け込めるし、どんな時代でも受け入れられる基本原理だ。インドでは仏教はほぼ廃れてなくなっている。。。 そんなところも諸行無常だから、と言うことで包み込んでしまう下地があるのが仏教らしい。

これからも仏教関係の本を手に取るが、この本は手引書として重宝しそうだ。

三四郎 (1908) 夏目漱石

 

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

 

 

カラマーゾフを読んだ後からか、この小説の進行が小気味が良い。無駄な装飾がない。心理描写があっさりしてる。主人公の三四郎に至っては自分の拘りとか、主義主張を漏らさず、まったくもって純朴だ。だからこそ、逆にそんな主人公に、自己の青春を重ね共鳴する。

読んでて思い出したのは、東京ラブストーリー。カンチが三四郎で、リカが美禰子といった感じだ。美禰子は東京の女性の象徴であり、前衛的で、独立した個人。彼女は無意識の偽善者として出てくる訳だが、純朴な三四郎を惑わせる。とは言っても、現代で言えば、大人しくて分別があって、おしとやかな女性なのだが、当時の文脈で言うと、そのころの読者には美禰子は全く正体が掴みづらい、魔性の女として映ったのではないだろうか。

夏目漱石は言文一致を確立した文豪と言うことで、当時はセンセーショナルな小説だったと思う。今読んでも普遍性を感じる文体で読んでいて心地よい。

それでも心理描写はとってもあっさりしている。例えば、美禰子について考える三四郎の描写は「美禰子も顔や手や、襟や、帯や、着物やらを、想像に任せて、乗けたり除ったりしていた」と言う調子だ。この描写、ドストエフスキーなら20ページくらいは割いて、女性に心を奪われ、妄想に囚われる男性を描けることだろう。ましてや、掛け算、割り算の表現を使って、機械的に考えるみたいで、面白い。

さらにプロットもとてもシンプルで、驚くような展開がない。それでもスラスラと先を所望して読めるのは、あっさりした塩ラーメンのような、くどくなくそれでいて旨味が凝縮される人々の描写が秀逸だからなのだろう。

 

 

バッタを倒しにアフリカへ (2017) 前野ウルド浩太郎

 

 20年前以上になるけど大学院時代を思い出した。就職氷河期で研究者は学校に溢れていて、未来が見えないまま不安な生活を送っている研究者の卵がたくさんいた。私は修士を終えて、自分の研究を強引に職業に結びつけて企業に就職した。むしろ溢れる学生を考えると、教授の負担にならぬよう、就職する方が良いものではないかと思った。なので卒業のパーティーにて、大学院の研究長に修士論文を「シャープだった」と褒められ、「君は残るのだと思った」と言われて嬉しかった。もっとも、私は活動家なので、文献の世界に埋もれるのは無理と思い企業に就職。今もそのことを後悔していない。

 

前野氏は、もっと孤独だっただろう。だってバッタ研究ってとても辛そうだ。どうにもこうにもいつの時代でも全く就職の道が狭いだろうと思う。でも前野氏のすごいところは、道を切り拓く力だ。底抜けに明るく、好きなものを直視し、謙虚で向き合う姿勢がこの本には溢れている。西アフリカにあるモーリタニアを悩ませているサバクトビバッタを研究しに乗り込む。

バッタ研究なんて需要あるの?と思うが、今年はインドにも大量のバッタが発生し、中国にも被害が及ぶ可能性が示唆されていて、実はタイムリーな話だった。タイムリーというか、バッタの被害は聖書やコーランにも記されているらしく、古来から今も続く天災ともいうべき存在で、一度発生すると、数百億匹が群れ、東京都くらいの広さの土地がバッタに覆い尽くされるとのこと。1日100Kmの移動も可能で、西アフリカだけで400億円以上の損害になるらしい。恐ろしい。

前野氏がすごいな、と思うのは、研究者ではありながら、周りへの気配りや、ユーモアがたっぷりで、それでいてストイックなところ。書いてあるエピソードは茶目っ気たっぷりだが、現地の人もリスペクトする行動力は凄い。痛快な研究エピソードが綴られている。

バッタの話が中心の解説本かと思いきや、バッタ研究所を中心とした現地の人々との格闘記録が中心でそれが面白い。でも現地の人々を面白おかしく綴っている訳ではなく、むしろ心から感謝をし、リスペクトをしているのが行間から伝わり、それも読んでいて心地よい。虫とか大好きな高校生にぴったりの本だと思った。

ひたむきさ、ユーモアは国を超えても通じるもの。それがよくわかる本だった。

 

カラマーゾフの兄弟 by ドストエフスキー (1879)

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

読むきっかけは「語彙力こそが教養である」を読んで、その中のお勧めに本書があったから。語彙力を鍛えるのにピッタリな本らしい。かといって、この本が読みにくくはない。もっとも私が読んだ原拓也氏の翻訳による新潮文庫カラマーゾフの兄弟は読みやすいと評判らしい。

 

もう一つの理由は、ゴールデンウィークを無為怠惰に過ごすことなく、意味があるかはわかないけど、読書に没頭して読書体力をつけたかったから。カラマーゾフの兄弟新潮文庫で上・中・下巻の3巻におよび、2000ページにもなる。こんな長編小説は初めて読破した。

 

ゴールデンウィーク中に読破する予定は頓挫し、結局1ヶ月くらいかかった。私は1時間60ページくらいしか読めないスローリーダーなので、33時間くらいかけて読んだことになる。

この本はきっと何度も読んで噛みしめるものなのだろうなと思う。僕は、映画なら好きなものは何回も観まくるが、文学ではそんなことは起こったことがない。このカラマーゾフがそうなって欲しい。楽しみなのはカラマーゾフの兄弟を読んだこと、ドストエフスキーの本を読んだことによって、世界の一部の人と共通の話題が出来たこと。いつか、この本について語る相手があらわれたらきっと兄弟のように感じると思う。文学を読むというのはわかりやすい成長の証ですね。

感想として、1879年に書かれた本だけど、今にも通じる普遍的なテーマを扱っていて面白い。3人の兄弟とその父が登場人物であるが、それぞれの個性が強くて面白い。

 

父親の殺人事件を巡り、この強烈な個性を持ったキャラクターが、生き生きと、自分をさらけ出し、他者にぶつかっていく姿は、まさに人間ドラマの真骨頂というところ。裸で自分の思想をぶつけるという風景は、炎上とかコンプライアンスとか自主規制とか、多様性尊重とか、ポリティカルコレクトネスとか、時には極めて肌触りの悪い既製服を着せられている我々現代人にとって極めて痛快に感じるものだ。自分の本性を他人に完全に晒し、そこには打算とか計算があるわけではなく、ただ単に晒し出しあう姿が清々しい。ロシア人を少し尊敬する気持ちになった。もっともロシア人youtuberがロシア文学は古くて、分かりにくくて、現地の人もそんなに読んでいるわけではないと聞いて、逆に少し安心したけど。

 

印象に残ったシーンは、第5篇に出てくる大審問官。無神論者のイワンがアレクセイに語る叙事詩だが、ここでは復活して現代い戻ったキリストが一方的に、痛々しい程に、老審問官の批判を浴びる。キリストの死後、社会を支えてきたのは悪魔の論理であり、復活したキリストの存在が逆に邪魔であり、明日には処刑すると問い詰められるところだ。それに対し、キリストは無言のままキスをする。

 

第6篇では、大審問官の対軸となるようなシーンとしてゾシマ長老がアレクセイに人生最後の説教をする。長老は「余分な不必要な欲求を切り捨て、自惚れた傲慢な自己の意志を免罪の労役によって鞭打ち鎮め、その結果、神の助けを借りて精神の自由を、さらにそれとともに精神的法悦を勝ち得るのだ!孤独な富者と、物資や習慣の横暴から解放された者と、果たしてどちらが偉大な思想を称揚し、それに奉仕する力を持っているだろうか?」と語る。アレクセイはこの後、第7篇で大地を抱きしめ、涙を降り注ぎながら大地に接吻し、立ち上がり一生変わらぬ堅固な闘士になる。

 

欲望をエンジンとする社会の中で、錯綜する人々。その中で、宗教から自分の精神の拠り所をもち、大地に足をついて未来を切り拓こうとするアレクセイの姿の描写が実に美しかった。 ちなみに、クレバーで合理主義なイワンが、最後は兄の裁判にあっては、精神的にボロボロになってしまうところも、印象的だった。科学は人々に心の安住を齎す者ではないということだろうか。

 

また死にイリューシャという少年と、その友人達、父のスネギリョフ、アレクセイのシーンはジーンときた。日々に脈々と残る人間の暖かな愛情に希望を持たせるとても大事な伏せんだった。

 

カラマーゾフの兄弟は、著者自身が、二部構成であることを語っており、書かれぬまま、ドストエフスキーは亡くなった。誰も読むことが出来ない続編がある、それがまた、この文学により一層の深みを与える。いつかロシアのバーでウォッカを飲みながらカラマーゾフの続編についてロシアの人と語ってみたい。妄想するだけで楽しい。